出身地:中国吉林省

震災時の様子をお聞かせ下さい。
私は、2009年に岩手大学大学院を卒業し、現在は阿部長商店という水産加工会社で働いています。震災時は、岩手県の大船渡という町に勤務していました。
今回の地震の前にも一度大きな地震があり、防災訓練、災害時の対処方法などを会社で行っていたため今回地震が起きたときは冷静に対処することができました。地震が起きたときに机の下に隠れ、収まった後にガスの元栓を閉め、電気のコンセントを全て抜いて屋外に避難しました。
  大船渡という町は海岸線に位置するため、津波に対する防災意識が高く、津波が起こったときの避難場所も決められていたので、屋外に出た後は、津波警報が出ていたため各自の車で高台へ移動を開始しました。
私の住んでいるアパートが宮城県の気仙沼(大船渡から南に40km)にあるため、車で気仙沼から通勤する仲間と3人で海岸線から内陸部の山の方へと移動しました。途中ラジオで余震の情報や津波の情報を収集しながら余震が収まった後にアパートがある気仙沼へ向かいました。途中通行止めの場所があったり、渋滞に巻き込まれたりしたため、アパートに到着したのは夜の11時半でした。
気仙沼は、海岸線にあり津波の被害も大きかったのですが、私のアパートは高台にあったため津波の被害はありませんでした。
母国の家族の反応はいかがでしたか。
震災直後は、電話回線の混雑や基地局の津波の被害などで電話が通じず、結局母国の家族と連絡が取れたのが震災から4日後の3月15日でした。父も母も泣きながら早く帰国するよう言われたのですが、私の妻が妊娠後期で病院に入院しており、また、会社も心配だったためもう少し様子を見てから考えようと思い母国の家族を説得しました。
また、妻が入院していた病院も気仙沼だったのですが、地震の影響で市内全域が停電となり自家発電で診療をしていたのですが、病院から転院を勧められ、また、会社からはしばらくの間自宅待機をし、4月の中旬から出社するよう連絡があったので、親戚がいる仙台へヘリコプターで仙台市内(気仙沼から南へ80km)の病院へ移動し4月の中旬まで仙台市内の親戚の家に住んでいました。仙台市内はライフラインの復旧が早く、テレビやインターネット等の情報を収集し、原子力発電所も安定してきていたのでこのまま日本に滞在していても問題ないと思い家族に状況を説明ししばらく帰国しないことを伝えました。
4月中旬に気仙沼にいる友人に連絡し、水道、電気、ガスのライフラインが復旧したかどうか確認し、気仙沼に帰っても普通に生活できると思ったので気仙沼に戻ってきました。
現在の生活や就業などの状況はどうですか。
気仙沼は津波の被害が大きかったため、未だ自衛隊やボランティアの方々ががれきの撤去の作業をしています。また、漁業の町なので漁船や水産加工施設も大きな被害がでており震災前の状況に復旧するのには時間がかかりそうです。
生活する上では、電気、ガス、水道、通信などのライフラインは既に復旧していますし、スーパーやコンビニエンスストア、ガソリンスタンドも営業しており、品揃えも震災前と変わらなくなっているので生活する上では困ることはありません。
ライフラインの復旧については、道路の復旧の早さには驚きました。私が住んでいる海岸地域は、橋桁が流されたり、道路の亀裂が多かったのですが震災後1週間で7割程度、1ヶ月で主要な道路の復旧が完了していました。
また、電気・ガス・水道等は日本全国から復旧のためのチームがいち早く被災地に集結し宮城や岩手で復旧作業を行うなど、災害時の対応・復旧体制が正常時から準備されていることに驚きました。
実際に、仙台市内に一時避難していたときに、親戚の家のガスを直して下さった作業員も山口や新潟から来た方でした。おかげで仙台も気仙沼も思っていたより復旧が早かったです。
就業については、現在は気仙沼の工場の復旧作業を行っています。私の本来の配属先は大船渡の工場なのですが、先日妻が無事出産しまして、妻と子供の面倒も見なくてはいけないため、工場長からしばらくは気仙沼の工場で勤務の許可がでたので気仙沼工場で倉庫の片付け等の作業をしています。会社の計画では9月のサンマ漁までには操業できるよう社員みんなで頑張っています。
今後の復興について思うことを教えて下さい。
個人では微力ですが、私が働く工場の方々や街に住む方々、また全国各地、世界中からから来て下さるボランティアの方々みんなで力を合わせれば必ず日本は復興すると信じています。私の勤務する会社は地域の主要産業ですので、まずは自分の仕事を頑張ることが日本の復興につながると思っています。
また、私自身、先日子供を持つ父親になったので、子供のためにも早く震災前の様な活気のある街に戻るように頑張りたいと思います。
